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おっちゃん物想う

おっちゃん物想う

音楽遍歴

音楽遍歴

初め て音楽に目覚めた時
母親か ら聞いた話だが、胎児の時から良くラジオの音楽を聞かせて貰っていたらしい。
母親は音痴だったらしく子供には音痴に成って欲しくなく、努力したらしい。
昔の音楽が好きだと言うと、母からそれはそうだと言われた。
ただ、「青い山脈」とかいった古い歌は成人してから良さが解った。
小学校4年位の時に初めてラジカセを買ってもらいFMを聞き出した。
そのとき感動した曲は、「パフ」と言う洋楽だった。
聞くのが多いのは洋楽。
サイモン&ガーファンクル、カーペンターズ、等を良く聞いた。
聞きやすい穏やかな曲が好きだった。
邦楽で言うと、歌謡曲、「喝采」など今でも口ずさむ。
年齢がばれてしまうか。
若い人は知って居る人は少ないだろうな。
だけど最近の若い人が意外と古い曲を知ってるのには驚かされた。
ちあきなおみの曲。
「風」とかも良く聞いた。
この頃には、ビートルズは知らなかった。
ポップ、フォークが多かった。
演歌も少しは聴いたが、演歌は好きに成れなかった。
暗いのは「喝采」の様な曲で十分だった。
目覚めた頃と言ってもこの頃はそれ程音楽に魅力と言うか、
熱意を感じなかった。
変わったのは中学に入ってから合唱部に入ってから。
何故、合唱部だったのか?
音痴だった、母親の教育にも関わらず。
聞くのだけが好きだった。
しかしその中学の合唱部は、全国大会に何回も出る程の有名な所だった。
初めて会った同級生に連れて行かれたのだが、そこの魅力はあっという間に
私を捉えた。
母親は剣道部に入れたかった。
貧弱な私の体力などを増強させる為に。
担任にまで、剣道部に変えるよう意見してもらうよう要請していた。
しかし親の反対も私を変えなかった。
有名な力の有る所と言うのは独特の雰囲気を持っている。
その雰囲気に酔いしれたのだ。
酔って仕舞ったとしか言いようが無い。
音痴なのである。
男は重宝された。
混声合唱では、特に中学くらいでは男は貴重だった。
コンクールなどの練習でも女性の下級生は参加しない練習にも男は参加できた。
その時、指導者として他から来ていた人間に「こいつは”ガイ”だな」と言われた事を鮮明に 覚えている。
「外」と「害」を掛けた言葉。
しかしそんな台詞にもめげずに練習に熱心に参加した。
その合唱部時代に途中から転校して来た「H.N」との出会いが
私の音楽だけで無く様々な事を変えた。
「ビートルズ」を知ったのは彼からである。
「井上陽水」も。
この二つは、私の音楽への感情を大きく変えた。
合唱部に入って一日平均5時間近く練習したのも。
他の合唱部などのコンサートなども聞きに行くように成った。
聴くと言ってもラジオからだけで生のコンサートなど行く気に成った事は無かった。
人生の中の音楽の比率が大きく変わった頃だった。
部活動でも練習して、バンド活動までする様に成った。
本当に音楽に目覚めたのはこの中学の時である。

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中学の 時は、教室で箒をギター代わりに歌いまくるだけだった。
少しは友人がギターを弾け、私が少しだけドラムの練習をしたり、スタジオで練習したりもし た。
ビートルズのコピ-だった。
卒業する頃、或る小さなライブハウスに出演した。
ドラムはなかって洗濯板みたいな打楽器を持たされた。
客は大変少なく、三人くらいだったが初めての舞台と興奮が有った。
貰ったギャラは大事に紙に包んで保管した。
FMラジオから「クィーン」の存在を知ったのもこの頃だった。
バンドを組んでいた親友も知らない頃、教えたら初めの内はそれ程の反応だったが、
後から、「あれって凄くいいな」と喜ばれた。
それからその親友は「イエス」なんかを発掘してきた。
プログレはクラッシクも聞いていた僕たちにはとても新鮮で感動した。
流石にプログレはコピーは出来なかった。
高校時代は少し音楽から遠ざかっていたがFMは良く聴いた。
卒業してから親友はバンドを本格的に活動する様に成った。
オリジナルを何曲か作曲してボーカルやドラム、ギターも募集した。
私は「ミキサー」と言う位置で参加した。
この頃はロックを良く聴いた。
クィーンの来日コンサートにも行った。
レコードと殆ど変わらない演奏に感動した。
ACDCの「バックインブラック」の様な曲にもはまった。
お決まりの様に「サンタナ」「レッドツェッペリン」「「クリーム」等にも凝った。
「天国への階段」は、友人の家に行くと必ず掛かっていた。
この曲を聴くとあの青春時代の徹夜して遊んで居た事を思い出す。
どこか退廃的なムード。
余りにもはまっていた。
フリーターをしながらバンド活動などをして良く金には困っていた。
親友はオリジナルをやる様に成って、何回かコンサートやデモテープを作ったりしたが
結局は成功しなかった。
「絶対に音楽で有名に成る」とその親友は中学の時から言っていたが成功せずだった。
この親友は中学から10年以上付き合いをしていてこいつとは死ぬまでの親友だなと思ってい た。
この人間の為に浪人して失敗した後専門学校の音響工学科に入った。
ここは1年で中退するのだが。
この親友が居なかったら音楽だけで無く俺の人生は大分違うものに成っていただろう。
病気に成って、被害妄想が何処かに有った頃、喧嘩別れしてしまった。
今ではとても後悔している。
この親友が居なかったら私の音楽の嗜好は大分違う物に成っていただろう。
現に今は女性邦楽ボーカルにはまっている。
洋楽も聴きたいのだが、今の環境ではFMが入らない事等で、洋楽の情報などから遠ざかって いると言うのも理由だが。
「井上揚水」と「中島みゆき」そして「中森明菜」以外は殆ど洋楽しか聴かなかった。
歌謡曲は少しは耳にしたが。
「中森明菜」は、初めてアイドルで気に入った歌手である。
街角で、「スローモーション」を聞いたときの感動は今でも覚えている。
最近テレビには余り出ないので寂しい。
親友は「松田聖子の方が上手い」と言っていたが私は「中森派」だった。
バンド活動と言っても少しドラムを練習した位で私は演奏には余り関わらなかった。
「オープンのデンスケ」は買ったが楽器は買わなかった。
親友の家でたまにギターとベースを少し弾かせて貰う位だった。
今、キーボードとフォークギターを買って持っているが、その下手さ加減に余り触らない。
キーボードは少しは弾けるのだが、ギターは中学の頃とかと殆ど変わらない下手さなので
買ったはいいが、余り触る気に成らない。
もう少し真剣に練習しなくてはと思っているのだが。
親友は結局バンドのボーカルだった女の子と同棲して別れた。
青春の貴重な1ページだった。

音響機器に 百万
フリーターをしていた頃、特に音響機器に凝った。
始まりは、浪人時代新聞配達をしていた。
その時に貯めた金が10万ほど。
目当ての物は20万を越す「ナカミチ」のデッキ。
初めてローンを組んで買った。
ドラゴンと言うそれはアジマズ調整をマニュアルで設定できた。
何の事か解らない人には解らないだろう。
デッキに23万ほど掛けるなんて今の時代には考えられない。
昔、当時はステレオに高級機が有った。
それを初めとして、フリーター、期間工等をして稼いだ金を殆ど音響機器につぎ込んだ。
プレやーは厚み15CM程有る20万程の物。
CDも15万。
総額100万ほど掛けた。
ソニーの知る人ぞ知る「オープンデンスケ」も20万だが買った。
今ではオープンなんか手に入らない。
一時期出た「Lカセット」も消えた。
今はもうデジタルの時代だ。
欲しかったマルチチャンネルのレコーダーなども安くで売っている様に成った。
HDレコーディング、デジタルだ!
実は震災に会って、それまで買ったオーディオも全て無くして仕舞った。
それからである。
オーディオに金を掛けなくなったのは。
しかし現在、パソコンのDVDとかサウンドカードとかで5.1チャンネルとかでの再生に
面白みを感じている。
安物だが、サブウーファー付きのスピーカーを2セット買った。
4CHで聴いて楽しんでいる。
これから又音響機器に凝るかもしれない。
だけど多分当分はPCに金を掛けてオーディオには金を掛けないだろう。
買うなら中古、今は。

恋 愛が上手く行ってる時の音楽

この頃は、昔聞いた音楽を良く聴いていた。
殆ど変わりの無い平穏なと言えるような頃だった。
二人で聴いた覚えがある曲はルクプルの「陽だまりの歌」だった。
英語の歌詞のバージョンもあるのだが、それを彼女は気に入ったと。
二人で一緒に良く聴いた。
この頃の音楽の嗜好は殆ど変わらなかった。
変化の無い、落ち着いた頃だった。
もう病気だったが、落ち着きの有る良い頃だった。
幸せな時期。
それでも「中島みゆき」は聞いた。
基本的にハッピーな曲。
だけど印象的な音楽はこの頃には出会ってない。
ルクプルだけだろうか。
後は昔聞いていた曲。







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